特集「村の公文書」展 (神山町郷土資料館所蔵資料より) 5

book神山の煙草生産

 徳島の山間部では、江戸時代から煙草づくりが盛んであった。とくに美馬・三好郡では近年まで中心的な産業であり、明治29(1896)年3月「葉煙草専売法」公布後、30年4月に全国61ヶ所の専売所のひとつとして池田に置かれた。その後明治37年に完全専売となるが、池田支局と「阿波刻」の地位が変わることはなかった。
 神山での煙草の生産はもっとも町内西部の山間地である上分上山・下分上山で盛んであった。江戸時代、藩の藍方役人吉田直三の手記(「煙草誌資料」27ページ『阿波池田たばこ史』)によれば、寛政11(1799)年には名西郡上山村上分で5千斤、上山村下分でも同じく5千斤の収量(当時美馬三好両郡では240万斤の収量があったという。)があったが決して多くはなかった。

煙草写真1
写真1 「大正元年以降煙草耕作成績一覧表綴」(上分上山村)


 表1は、明治33(1900)年以降の昭和13(1938)年までの下分上山・上分上山の両村および池田支局全体の耕作人数・耕作面積・収納量目の一覧表である。大正元年以降の統計は、下分上山村に残されていた「大正元年以降煙草耕作成績一覧表綴」による。明治33年以降大正13(1924)年頃まで、池田支局全体の収納量は右肩上がりであるが、神山町内両村の収納量は全体の伸びを上回る大きな伸びを示している。特に下分上山村は、大正4年までは試作地であったが、大正7年に下分上山村字今井に葉煙草収納所(煙草取扱所)が置かれ、ピークの13年には両村での耕作面積は70町歩(約70?)を越え、収量は4万7千貫(176?250?)に達していた。

煙草写真2
写真2 「池田専売支所管内大正4年煙草産地図」
(「大正元年以降煙草耕作成績一覧表綴」より)

煙草写真3
写真3 「池田専売支所管内大正9年煙草産地図」
(「大正元年以降煙草耕作成績一覧表綴」より)

 この後昭和にはいると、煙草の嗜好が、刻み煙草から洋葉の紙巻き煙草に変わることにより次第に減少していった。さらに戦中には国策が食糧増産へと向かったため煙草の生産は減少し続けた。戦後には専売公社を中心に体制が立て直され神領・鬼籠野・阿野の東部3か村でも煙草耕作組合が設置され、昭和20年代には神山全町内に煙草耕作が広がったが、30年代から減少に転じ、昭和60年代に入り神山町での煙草耕作はほぼ消えてしまった。
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