行事の記録

庚午事変とその関係文書からの問いかけ
講師 松本 博 氏

 「庚午事変・稲田騒動」という事件はあまりに複雑で一言でお話しすることはとても難しいことです。しかも民衆(収奪されている人。抑圧を受けている人。差別を受けている人。この時代をもう一歩前へ進めていきたいと思っている人。この様な人たち全て。)の姿を研究対象としていた私は、「庚午事変・稲田騒動」の研究からかなりの期間離れていました。この事件については多くの諸先輩の方々がたくさんの資料を紹介していただいていますが、どうも民衆の姿が見えてこなかったのです。しかし、今回の文書館の展示に向けての勉強会の過程で、少しだけ民衆の姿が見え始めてきたのではないかと感じます。例えば、国立公文書館が所蔵する公文録の検討から、洲本襲撃に士族でない身分の人たちである農兵が1,478名参加していることなどが判明したのです。

外国人と四国遍路−過去から現在まで−
講師 徳島文理大学 デイビット・モートン 氏

はじめに
 今回は大正時代から現在までの外国人遍路についてお話ししたいと思います。
 今日、多くの外国人遍路が四国を廻っています。87番札所長尾寺と88番札所大窪寺の間にある「おへんろ交流サロン」によると、ここ数年毎年約50人の外国人遍路がこのサロンを訪れていて、その国籍は世界中から17カ国に及んでいます。私は25人くらいの外国人遍路と会っていますが、その動機はまちまちです。また、四国遍路ほど安全な巡礼は無いと彼らはいっています。

明治〜昭和初期の徳島と繁華街の形成
     〜商業空間から見た近代都市・徳島の変容〜

講師 四国大学  関口 寛 氏

 消費社会とも呼ばれる今日、ショッピング(買い物)は、庶民にとって「娯楽の王様」といっても過言ではない地位を占めています。このショッピングを楽しむことのできる繁華街は、徳島においてどのように成立してきたのでしょうか? 今回は、明治期から昭和初期における徳島の商店街を中心とした繁華街形成の歴史を、新聞資料や写真資料を交えながら振り返ります。

「おさざや往還道大破一件」 
     −美馬郡西端山(現つるぎ町)組頭庄屋谷家に残る3通の文書より−

 「おさざや往還道」は、美馬郡貞光の街から西端山の山の尾根筋を通り一宇山に入り一宇山奥分に入った辺りで二手に分かれ、西へ向かう一方は小島峠を越えて東祖谷へ、東へ向かう一方は木屋平峠を越えて木屋平に抜ける道である。祖谷・剣山へ向かう最も一般的なルートであり、阿波の広大な山岳部と平野部を結ぶ幹線でした。



「年貢を運ぶ道」
 「通船切手」は通運の際に必要不可欠なものです。年貢の場合、切手が年貢であることを証明し、御分一所で関税(分一)が徴収されないという役目も担っていました。文書により差違は認められるものの、切手発給を願上げる際には 米の数量(複数の船に分かれる場合はその内訳も)、どこの年貢か、誰の年貢か、運び出す場所・納め先、年貢を運ぶ者の名前(船主の名前)、日付、宛先、差出人などが記入されていました。年貢を納める流れを知る事が出来る文書を2つ紹介します。