こんな史料がありました【第4回】

「異国船」がやってきた、さて村人達の反応は?

 幕末期、阿波国の海岸線にも多くの「異国船」が近づき、鎖国の中にいた人々を脅かすようになってきました。そうした状況の中で村人たちの中には、武術の鍛錬をして新しい世の中に備えようとしていた人もあらわれたのです。秋本家文書の「申上覚」を見てみましょう。
 
アキモ00909 
秋本家文書 亥5月28日 「申上覚」(アキモ00909)
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      申上覚
一 郷付浪人       今川静太    年三十一
一 御蔵先規奉公人   仁木米蔵    年四十三
      但右両人先達而御手当御用相蒙居申
候得共此度剣術稽古仕候
一 右同         元木栄吉    同四十二
一 夫役御免百姓       茂吉    同四十六
一 右同           惣太郎   同四十
      但右三人剣術稽古仕候得共当秋より
      可仕候様申出御座候
一 右同           伝蔵    同二十四
一 右同           与蔵    同二十四
      但右両人義砲術稽古可仕旨申出候得共
      是又右同断
 右者此度異船御手当為御用剣術・炮術共稽古仕
 もの共相調子書付ヲ以申上候、以上
小仁宇村庄屋
亥五月廿八日 秋本和三郎
森哲蔵殿

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 この古文書は、小仁宇村庄屋の秋本和三郎が、仁宇谷東部の組頭庄屋中山村森哲蔵に村内の剣術・砲術の稽古者について報告したものです。
ここに出てくる人々は、小仁宇村の人々です。若い人から壮年の人に至るまで異国船手当(異国船来港に対する対応)のため、剣術や砲術の訓練をしていた、もしくはこれからするところだとあります。郷付浪人・先規奉公人は郷分にあって元武士身分として夫役御免などの特権を与えられた身分(江戸時代後期には身分の売買も行われていたが。)で、異国船への対応で、まず駆り出された人々でした。それでは人数が足りないので、さらに夫役御免百姓が組織されようとしていたのではないでしょうか。
 異国船手当では、海岸線の防備のため海部郡・那賀郡の寛政5年(1793)・文化5年(1808)・弘化2年(1846)砲台・烽火台や遠見番所が設置され、その番人が組織され置かれていきました。こうした施設は元々置かれていたものもありましたが、異国船手当に対応して再整備されたのです。
 こうした異国船来港に対応した海部郡や那賀郡の組織が、幕末維新期の徳島藩の軍隊とどのようにつながっていたのか。今後の研究の課題といえるでしょう。
 
--------------------------------------------------------------------------------------©2006.11金原祐樹