第31回企画展 『暮らしとみち』 展示解説の資料4 10月1日分

「おさざや往還道大破一件」 
     −美馬郡西端山(現つるぎ町)組頭庄屋谷家に残る3通の文書より−

 「おさざや往還道」は、美馬郡貞光の街から西端山の山の尾根筋を通り一宇山に入り一宇山奥分に入った辺りで二手に分かれ、西へ向かう一方は小島峠を越えて東祖谷へ、東へ向かう一方は木屋平峠を越えて木屋平に抜ける道である。祖谷・剣山へ向かう最も一般的なルートであり、阿波の広大な山岳部と平野部を結ぶ幹線でした。



美馬郡全図より 
写真(一宇村内の道 美馬郡全図より抜粋および書き加え)


 美馬郡西端山の庄屋谷家文書の中に、天保14年(1843)に一宇山の中で「おさざや往還道」が大破し、その修理工事人足の負担でもつれた一件の古文書が3点残されています。その中から美馬・三好郡代の三間勝蔵が西端山の与頭庄屋助役谷幸三郎に当てた書簡を紹介する。(「江戸時代阿波の交通制度−暮らしとみち−」の4ページにも紹介しています。)

タニケ00041 
写真(谷家文書 三間勝蔵(書簡)) 

 この史料によれば、おささや往還道の修理は、貞光村の折目伊勢蔵・折目武之丞・谷金三郎の3名の申し出により行われることになり、裁判は申し出人のうち谷金三郎が請け負うことになった。谷金三郎は、修理人夫について、口分は西岡政右衛門、奥分は谷和七郎に掛け合い、奥・口の一宇山百姓を動員することに決められた。しかし、奥分担当の谷和七郎が人夫を差し出さず、奥分の工事が遅れ始めたため、この古文書が出され、谷幸三郎に谷和七郎の説得に当たらせようとしたのである。

 この史料以外の古文書(タニケ00531)、(タニケ00532)は、工事の遅れを指摘された谷和七郎の書簡である。工事が単に遅れていたのではなく、奥分と口分で工事量・質(2倍の行程、山岳部での厳しい工事)に差があり、政右衛門と谷金三郎に人夫の加勢を依頼している途中であったこと(一通は4月25日付の谷金三郎への書簡である。)。文化年間に初めておさざや往還道を造ったときに、和七郎が裁判人の一人を務め成功させたことなどを書き、往還道工事を行うことへの自信を見せている。

 古文書が残るというのは皮肉なもので、この工事が何の問題もなく進んでいれば、隣村の谷幸三郎が事件に介入することもなく、この文書が残ることは無かったはずです。さらに谷家で大事に古文書が保管され、徳島県立文書館に寄託されなければわれわれはこの文書の存在を知ることはできません。こうして残された古文書により、江戸時代の徳島が少しだけ垣間見られるのです。ようやく残された事実の証拠となるこうした古文書を大事に次の世代へ受け継ぎたいものです。
 タニケ00531文書
  谷 和七郎(一宇村与頭庄屋助役)  →  谷 金三郎(おさざや往還道大破取繕裁判人)
  4月25日付、書簡の控 

タニケ00041文書 
  三間勝蔵(美馬・三好郡郡代)      → 谷 幸三郎(西端山村与頭庄屋助役) 
  4月27日付、美馬郡代からの村役人の上層部へ内済を求める指令。

タニケ00532文書 
  谷和七郎(一宇山与頭庄屋助役)    → 谷 幸三郎(西端山村与頭庄屋助役) 
  卯5月2日付、「御尋ニ付申上覚」 41号文書に対する返答書カ。 

◎おさざや往還道はどこにある    →   貞光の町から西端山・一宇を通って、東祖谷 
                             (小島峠)・木屋平(へ抜ける道) 

◎いつの文書なのか         →   三間勝蔵が美馬三好郡代に就任したのは 
                            天保7申(1836)年2月28日 
                            532文書から卯年 
                            →天保14卯(1843)年 

◎事件の発端は           →   一宇山分のおざさや往還道が大破してしまっため、 
                           貞光村の谷金三郎外2名を裁判人にして、復旧工事 
                           を行おうとしたが、一宇村奥分担当の谷和七郎が 
                           道造人夫を出さず工事が滞っている。 

◎谷幸三郎の役割は        →   隣村の組頭庄屋として、美馬・三好郡代三間勝蔵の 
                           命により仲裁に当たった。 

◎おさざや往還はいつできたのか  →   文化年間に道造り(1804〜1818)が谷和七郎を 
                             裁判人で行われている。


 この書簡類からすると、一宇山口分担当の西岡政右衛門と奥分担当の谷和七郎の間で工事の厳しい奥分への加勢人夫の話が滞っていたことに原因があるようである。工事を急ぎたい貞光村の裁判人谷金三郎が郡代に訴えたためことが大きくなったようである。

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