徳島の幕末・維新史シリーズ 【第4回】

徳島藩内に回達された
 大塩平八郎の人相書
美馬郡東端山・武田文書「御触控」より

 天保八年(一八三七)2月、潜伏していた四〇日のあいだに、阿波でも大塩ら首謀者の人相書きが村々に回達された。一味の逮捕に躍起となっていた領主層の動向は「御触控」などの記録によって明らかである。ところが、藩内の商家に残る記録のなかから浮かびあがってくる大塩の評価は一様ではない。ここにそのいくつかを紹介しよう。

例えば、名西郡内の商家の記録『加登屋日記』には、

  大塩、委細聞き知り大立腹つかまつり(中略)右大変の徒党に候えども根元困窮人救いの事ゆえ、大坂はじめ外国(他の藩)までも大塩の評判よろしく御座候

と、大塩の決起に支援する立場を記している。このことは、大塩の反乱のことがまもなく、芝居・講釈・あほだら経などにとりいれられ、短期間のあいだに全国津々浦々にまでひろがり、民衆の共感を得たことに通じるものである。

またいっぽう、美馬郡内の商家の記録『兵助日記』には、

   彼の大将大塩平八郎と申す仁、当国・美馬郡新町稲田九郎兵衛様の家来真鍋一郎と申す仁の家の産なり、よって同人宅厳しく御詮議遊され候(中略)大坂悪党者、御召し押さえなされ候やその儀は一向あい分かり申さず候

と記し、「悪党」大塩の「召し押さえ」に注目している。

 さらに同じ美馬郡内の豪商の『家録』には、

   右騒動党類候者早々御召し取りにあいなり、ほどなく太平にあい鎮まり目出たし目出たし

と記し、「騒動」の鎮圧をよろこんでいる。 きわめて不安定な世相のなかでせめぎあう利害。それが大塩の行動のなんたるかを見定める眼を曇らせているのであろうか。評価は分かれる。

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       覚         

一 此度於大坂表ニ組与力大塩格之助同居

父平八郎并與力瀬田濟之助組同心渡邊

良右衛門其余名不相知者共所々放火乱妨

致彼地両川口之内より乗船淡州へ押移候

風聞も有之ニ付召捕方之儀従公辺被仰出ニ付

別紙人相書ニ引合候者并胡乱之者厳密ニ

相改見当リ次第召捕其段可申出候 以上

         高木 真之助

         岡本 吉右衛門

  酉二月廿四日

      美馬郡中

 尚以所々渡場之儀村役人郷目附共より渡守

 共へ人相書相渡置取渡之者厳密ニ相改

 引合之者有之候得ハ早速村役人へ案内召捕

 可申出候 以上



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  人 相 書   大塩 平八郎

年齢四十五六斗顔細長キ色白キ方眉毛細ク

薄キ方額開キ月代厚キ方眼細キ有之鼻

常躰背格好常躰中肉其節之着類

鍬形付甲着用黒キ陣羽織其余着用

不分ラ

          大塩 格之助

年齢弐十七歳斗顔短ク色黒キ方背低キ方

鼻常躰眼常躰眉毛厚キ方歯出向歯

弐枚おれ候有之

          渡辺 良右衛門

年齢四十一二歳斗り顔色青白キ方背低キ

方眼二皮ニ而大キク出眼出歯月代常躰

          近藤 梶五郎

年齢四十歳斗顔丸キ赤黒キ方背低キ方眼丸ク

常躰月代角抜有之薄菊目石有之

          庄司 儀右衛門

年齢四十歳斗色黒クヲトカ以細キ方左之耳

徒婦連有之眼細キ方月代常躰

          瀬田 斎之助

年齢弐十五歳斗顔丸ク色浅黒ク方背高キ

肥肉眼丸ク二カワニ而眉毛薄キ方月代薄キ

小鬢有之

    右人相書西端山御制道人鶴蔵

    持居申を写御触之儀は当山へ達

              ( 以上 )


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