特集「秋本家文書」展

江戸人足と江戸村役(下)
秋本家文書にみる江戸人足と江戸村役

2.江戸村役
  江戸村役は、江戸人足とは別に徴発されるものであったようです。江戸村役は郡ごとに負担人数が決められほぼ固定化していたようで、郡内では各組村の持ち回りなどで勤められました。
 また、江戸村役については、旅費などの諸費用を関係する村々の与内米で準備しなければなりませんでした。与内米とは、それぞれの村から分担して出し合うお米のことです。

◆ 仁宇谷の江戸村役 ◆
 次の史料は、仁宇谷の江戸村役について書かれたものです。同時にこの頃の仁宇谷の人々を取り巻く情況を読み取ることができます。




「乍恐横切ヲ以奉願上覚」(アキモ00220)


内容をまとめると次のようになります。
(1) 仁宇谷筋から仕立てる江戸村役はこれまで、仁宇谷58か村の内の8か村(阿瀬比・中山・
   和食・仁宇・雄・横石・延野・吉野)が持ち回りで勤めていた。そして、その他の村は与内米
   を負担していた。

(2) 文政2(1819)年の仁宇谷騒動で、仁宇谷一円の組頭庄屋であった柏木叟右衛門が役儀
   を召し上げられたことにより
   ↓
  (ア)仁宇谷は西納村組と木頭村組に分けられることになった。
  (イ)柏木叟右衛門のいた仁宇村が受け持っていた江戸村役については、現在、仁宇村の
     庄屋を兼務している阿井村庄屋加藤吉兵衛が仕立てることになった。
  (ウ)阿瀬比村・中山村は桑野村組へ組入れられ、仁宇谷から抜けた。
     ↓    
  (ア)〜(ウ)より、これまでの江戸村役の勤め方を変更する必要が出てきた。
  
(3)与内米をめぐって
    これまで8か村へ渡されていた与内米だが、江戸村役の旅費などを与内米から準備して
   も余りが出る。余った分がその村の得になっており、与内米を出している村はいつも出す
   ばかりで不平等だ。
     ↓
    今後は、仁宇谷の全部の村が順番に勤めるようにすれば、その不平等もなくなるのでは
   ないか。

 この史料は(2)(3)の様な情況を受けて、8か村以外の村々の代表が、従来の江戸村役の勤め方の変更を求めると共に、与内米などの負担の不平等さをこの際に改善しようと、郡代所に願い出たものでした。
(※参考 高橋啓『近世藩領社会の展開』溪水社2000年)



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