徳島藩士のうち、大身*のものは、藩内の村に実際の領地を与えられ、そこから年貢を集めて生活の糧としていた(地方知行制)。領地を与えられる際、藩士(給人)は藩主から藩内の村名と石高が書かれているだけの宛行状を与えられる。宛行状*では実際にどの土地が藩士の領地であるかはわからない。村の中で実際に与えられる領地となる田畠、それを耕作する人を決める帳簿がこの「なよせ帳」という帳簿である。
滝川源太郎(庄左衛門影光)は、御児小姓、御目付、鉄砲組頭等を歴任し、高500石を与えられた大身の藩士である。那賀郡芳崎村(現那賀川町)は、天正年間の検地により302石とされた那賀川下流の海辺の村でこの「なよせ帳」により、そのうち100石が滝川源太郎に与えられたことがわかる。その後の資料では滝川家が芳崎村に領地を持っていたという記述は無い。滝川家の領地はその後、200石に減らされたため、芳崎村の領地を失ったものと思われる。
「なよせ帳」は、検地帳により年貢を納める農地として確定した土地を、藩士(給人)に与えるときに村で作られた帳簿であり、この帳簿を元に藩士が領する実際の土地が決められ、年貢を徴収する基盤となっていたのである。この帳簿により、その土地を実際に決めるのは、村であり、庄屋であることがわかり、村の責任で行われていたことがわかる(村請制)。
《 語彙説明(*) 》
大身(たいしん)…身分の高い人。徳島藩では、武士の格は、家老・中老・物頭の
順であり、物頭であった滝川源太郎は大身といえるでしょう。
宛行状(あてがいじょう)…藩主が藩士に領地を与える時に藩士に発給した
古文書。どの村で何石を与えるかが書かれている。
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