徳島幕末維新期人名事典
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●ま
■ 益田武衛(永武)【ますだぶえい(ながたけ)】 ■
      嘉永3年(1850)~明治36年(1903)
 徳島藩士。文学修行生。一橋徳島藩邸在勤。
 徳島藩中老仁尾内膳永捷の子。 徳島藩士益田氏を継ぐ(益田は仁尾氏の旧姓)。 明治2年10月阿部興人・南堅夫と共に外交御用となり上京。同3年2月18日長州藩脱隊騒動の視察を命ぜられ、永武・阿部興人・南堅夫の3人は宣撫使徳大寺実則一行と共に蒸気船戊辰丸(徳島藩船)に乗り山口に入り3月10日東京へ帰る。5月4日外交御用御免。東京において文学修行の辞令出る。明治3年9月15日新居水竹刑死切腹の介添人を勤める。明治9年4月徳島に普通社(自由民権運動の結社)を創設。その社長兼主筆となり、普通新聞を発刊し論陣を張った。廃刊後は徳島県政界に身を投じ、県会議員を長く務めた。

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●み
■ 三田昇馬【みたしょうま】 ■
      天保7年3月15日(1836)~明治34年5月(1901)
 稲田家家事取締役。
 《生》洲本紺屋町
 稲田家家臣。旧高100石。
 文久3年天誅組に参加して内藤弥兵衛、立木兼善らと徳島藩禁錮に処せられたが、のち朝廷の命により解放された。慶応4年2月、軍監役・糺問局頭取に任命され、有栖川宮総督の護衛として東征に従った。明治2年6月、版籍奉還後の旧稲田氏家臣の処遇問題から七条弥右衛門・内藤弥兵衛らと徳島藩からの分藩運動を企図したため、本藩の武士が憤激し翌3年5月庚午事変を引き起した。事変後、大阪で隠遁生活を送っていたが、明治6年6月司法省出仕、東京裁判所勤務。 以後天草始審裁判所長、天草治安裁判所長、浦和始審裁判所熊谷支庁長、浦和始審裁判所判事、青森地方裁判所長などを歴任、検事正から控訴院長まで昇進。貴族院議員に勅任された。正五位勲四等。

■ 南堅夫【みなみかたお】 ■
      嘉永2年(1849)~明治3年9月3日(1870)
 徳島藩士。徳島藩外交方。銃士三番隊。
 明治2年10月阿部興人・益田武衛と共に外交御用となり上京。明治3年2月18日長州藩脱隊騒動の視察を命ぜられ、堅夫・阿部興人・益田永武の3人は宣撫使徳大寺実則一行と共に蒸気船戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察し、徳島へ帰る。
 同年4月稲田家問題につき、東京の新政府に歎願する藩士総代10名の一員として上京、5月6日早朝東京の一橋徳島藩邸から脱帰。徳島脇町の稲田家襲撃(未遂)に関与し、徳島において諸隊を扇動し藩内を騒擾させたとして、斬刑に処せられた(特に切腹を許される)。徳島市助任西町万福寺で切腹。

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参考資料
『公文録徳島騒擾始末』、福田憲凞著『阿波書人志』、竹治貞夫著『庚午事変関係新居水竹遺稿要解』、藤井喬著『阿波人物志』、阿部宇之八伝記刊行会『阿部宇之八伝』、宮本武史編『徳島藩士譜』、徳島新聞社『徳島県百科事典』、吉川弘文館『国史大辭典』『明治維新人名事典』、桑井薫編『明治三年徳島藩職員録並御分知御家中分限帳』、徳島県立文書館『第29回企画展幕末の儒者新居水竹』『特別企画展庚午事変の群像』を参考とした。
※今後、増改訂を行い内容を充実させていく予定です。
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