●は
■ 蜂須賀茂韶【はちすかもちあき】 ■
弘化3年8月8日(1846)~大正7年2月10日(1918)
弘化3年8月8日(1846)~大正7年2月10日(1918)
徳島藩知事。
《号》誠堂 徳風
徳島藩14代藩主。明治元年1月17日藩主継承後、議定(同時に、刑法事務局補)ついで民部官知事。明治2年6月24日版籍奉還、徳島藩知事。明治3年10月3日から11月12日まで庚午事変により謹慎60日(明治3年は旧暦で10月は閏月あり)。
同4年1月政府に廃藩置県を建白。明治5年より同12年1月までイギリスに留学。その後外務省御用掛を経て、同13年大蔵省関税局長、ついで参事院議官。同15年12月特命全権公使として、フランス駐在(スペイン・ポルトガル・スイスも兼任)を命じられ赴任。同19年9月帰朝。同17年侯爵。同21年元老院議官。同23年東京府知事、翌24年7月貴族院議長、同29年第二次松方内閣の文部大臣、同30年枢密顧問官、議定官等を歴任。また北海道の雨竜牧場の経営、日本鉄道・東京海上保険・大阪紡績などの創設や発展に尽した。
《号》誠堂 徳風
徳島藩14代藩主。明治元年1月17日藩主継承後、議定(同時に、刑法事務局補)ついで民部官知事。明治2年6月24日版籍奉還、徳島藩知事。明治3年10月3日から11月12日まで庚午事変により謹慎60日(明治3年は旧暦で10月は閏月あり)。
同4年1月政府に廃藩置県を建白。明治5年より同12年1月までイギリスに留学。その後外務省御用掛を経て、同13年大蔵省関税局長、ついで参事院議官。同15年12月特命全権公使として、フランス駐在(スペイン・ポルトガル・スイスも兼任)を命じられ赴任。同19年9月帰朝。同17年侯爵。同21年元老院議官。同23年東京府知事、翌24年7月貴族院議長、同29年第二次松方内閣の文部大臣、同30年枢密顧問官、議定官等を歴任。また北海道の雨竜牧場の経営、日本鉄道・東京海上保険・大阪紡績などの創設や発展に尽した。
■ 林少弁(林厚徳)【はやししょうべん(はやしあつのり)】 ■
文政11年5月5日(1828)~明治23年3月2日(1890)
文政11年5月5日(1828)~明治23年3月2日(1890)
太政官少弁。
《通称》栄次郎《号》卓然 東園
徳島藩士。旧石高150石。嘉永元年作事奉行となり、その後は奥小姓・地方代官・京都邸留守居役等を経て、明治に至った。維新の時には、井上高格・日比野克巳らと尊王派に属した。明治2年徳島藩参政から、中央政府に出仕し、民部官権判事、民部権大丞。明治2年8月28日から同4年7月14日まで太政官少弁。同年8月金沢県大参事、同年11月額田県権令、同5年11月から同9年8月まで浜松県令に就任。その後、同16年東京市京橋区長、同22年深川区長を兼務、勲五等瑞宝章。
新居水竹の後妻たかの兄。
《通称》栄次郎《号》卓然 東園
徳島藩士。旧石高150石。嘉永元年作事奉行となり、その後は奥小姓・地方代官・京都邸留守居役等を経て、明治に至った。維新の時には、井上高格・日比野克巳らと尊王派に属した。明治2年徳島藩参政から、中央政府に出仕し、民部官権判事、民部権大丞。明治2年8月28日から同4年7月14日まで太政官少弁。同年8月金沢県大参事、同年11月額田県権令、同5年11月から同9年8月まで浜松県令に就任。その後、同16年東京市京橋区長、同22年深川区長を兼務、勲五等瑞宝章。
新居水竹の後妻たかの兄。
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●ひ
■ 日比野六大夫(克巳)【ひびのろくだゆう(かつみ)】 ■
文政10年(1827)~明治11年12月18日(1878)
文政10年(1827)~明治11年12月18日(1878)
徳島藩権大参事。東京詰公議人。
《通称》六大夫《号》快園
弘化4年相続。旧高50石。御城山定御番。時事を建白し、藩主の信任を得、目付より参政に進み、250石の加禄を受け、物頭格となる。幕末に勤王、佐幕の2説が沸騰した際、井上高格らと群議を排し藩論を勤王に統一した。明治2年7月徳島藩少参事、明治3年5月徳島藩権大参事、庚午事変により、謹慎50日。
のち総学司主事等に累進し、名東県出仕となる。明治5年6月公職を退き、有隣社(藩札交換を業務とする為替会社として設立。のち士族授産会社)の主幹。
《通称》六大夫《号》快園
弘化4年相続。旧高50石。御城山定御番。時事を建白し、藩主の信任を得、目付より参政に進み、250石の加禄を受け、物頭格となる。幕末に勤王、佐幕の2説が沸騰した際、井上高格らと群議を排し藩論を勤王に統一した。明治2年7月徳島藩少参事、明治3年5月徳島藩権大参事、庚午事変により、謹慎50日。
のち総学司主事等に累進し、名東県出仕となる。明治5年6月公職を退き、有隣社(藩札交換を業務とする為替会社として設立。のち士族授産会社)の主幹。
■ 平瀬伊右衛門【ひらせいえもん】 ■
嘉永3年(1850)~明治3年9月3日(1870)
嘉永3年(1850)~明治3年9月3日(1870)
徳島藩士。洲本牧民従事。
明治3年4月稲田家問題につき、東京の新政府に歎願する藩士総代10名の一員として上京、5月6日早朝、東京の一橋徳島藩邸から脱帰。洲本の稲田家襲撃に関与し、洲本において諸隊を扇動し藩内を騒擾させたとして、斬刑に処せられた(特に切腹を許される)。徳島市助任西町万福寺で切腹。
明治3年4月稲田家問題につき、東京の新政府に歎願する藩士総代10名の一員として上京、5月6日早朝、東京の一橋徳島藩邸から脱帰。洲本の稲田家襲撃に関与し、洲本において諸隊を扇動し藩内を騒擾させたとして、斬刑に処せられた(特に切腹を許される)。徳島市助任西町万福寺で切腹。
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●ほ
■ 星合(常恕)【ほしあい(つねのり)】 ■
天保13年(1842)~明治8年8月2日(1875)
天保13年(1842)~明治8年8月2日(1875)
徳島藩権大参事。
《生》淡路洲本
安政2年相続(養子)。6人御扶持方御支配15石。のち旧高100石。明治元年洲本目付役。明治2年9月14日徳島藩権少参事、同年10月5日権大参事に遷任されて公議人となり、徳島藩の東京出張所の外交係を務め、明治3年3月20日小室信夫・立木兼善に従って帰国していた。 庚午事変により、謹慎50日。
明治4年2月大蔵省に出仕、5月全国13大藩の海外視察団として洋行。米・欧・露を巡り同5年1月帰朝。その後高知県に赴任し、岩崎弥太郎と親交。同5年冬、権大参事を辞し、殖産事業(鉱山業)を興す計画を進めたが、同7年名東県大属として帰ることを余儀なくされ、就任1年後に急逝。
《生》淡路洲本
安政2年相続(養子)。6人御扶持方御支配15石。のち旧高100石。明治元年洲本目付役。明治2年9月14日徳島藩権少参事、同年10月5日権大参事に遷任されて公議人となり、徳島藩の東京出張所の外交係を務め、明治3年3月20日小室信夫・立木兼善に従って帰国していた。 庚午事変により、謹慎50日。
明治4年2月大蔵省に出仕、5月全国13大藩の海外視察団として洋行。米・欧・露を巡り同5年1月帰朝。その後高知県に赴任し、岩崎弥太郎と親交。同5年冬、権大参事を辞し、殖産事業(鉱山業)を興す計画を進めたが、同7年名東県大属として帰ることを余儀なくされ、就任1年後に急逝。
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