徳島幕末維新期人名事典
索引
キーワード検索
な行
●な
■ 中島錫胤【なかじまますたね】 ■
      文政12年12月8日(1829)~明治38年10月4日(1905)
 《通称》永吉、のち、直人《号》可庵・無外《生》徳島市佐古町楠小路
 徳島藩士三木(後に難波)章助の長男。楠本鼇山・岩本贅庵に漢学を学んだが、のち京都に出て中島棕隠の門に入り、養子となった。文久年間、徳島藩の儒官増田幸之助が昌平黌にあり、同志と尊王攘夷の志を通じ、新居水竹に計画をうちあけ周旋役となった。文久3年2月京都等持院にある足利尊氏らの木像梟首事件に関係して幕吏に追われ、同志小室信夫と共に逃れて阿波に帰り、佐古大安寺の志摩利右衛門の別邸にかくまわれたが捕らえられ、徳島塀裏に投獄されたが、慶応4年2月釈放された。明治元年徳島藩から徴士として朝廷に出仕。明治2年5月兵庫県令、ついで弁事、岩鼻県令、七尾県権令、飾磨県権令等を歴任。ついで司法省に転じ大審院判事等を経て、明治17年元老院議官に進んだ。同29年男爵となり、貴族院議員に勅撰された。

 先頭にもどる

●に
■ 新居水竹(与一助)【にいすいちく(よいちのすけ)】 ■
      文化10年4月15日(1813)~明治3年9月15日(1870)
 徳島藩総学司学頭(長久館学頭)。
 《諱》謙《字》受益《号》水竹・成園《生》徳島市富田町中屋敷
 藩の料理方新居米之丞(春洋)の長子。父春洋・柴野碧海・那波鶴峰・岩本贅庵・鉄復堂に漢学を学び、詩書に長じていた。天保9年父自刃により家督相続。同14年隠居した12代藩主斉昌の侍臣となる。嘉永3年斉昌に従って江戸に行き、昌平黌などで学び、10月帰国後は日帳格・庭方となる。安政4年5月より7月まで京都で病気養生。安政6年正月、13代藩主斉裕に経を講じ、中小姓になる。万延元年9月世子茂韶の侍講。文久元年5月藩の儒員となり、同年9月江戸の徳島藩校、長久館教授。文久2年から3年にかけて藩命により京都に何度も入り時事を尽くし、同年閏8月には大小姓となる。8月18日の政変により失脚し、池田村郷学校の教授となる。明治元年池田村郷学校教授の任を解かれ、同2年正月徳島の長久館教授。同年5月には金陵会議(四国会議)へ藩命により参加。同8月長久館学頭となる。
 版籍奉還に伴う稲田家の分藩運動が起こり、明治3年4月徳島藩士と稲田家臣説諭のため来藩していた小室信夫・立木兼善の帰京に際し藩士総代10名を東京の新政府に派遣し歎願することになり、その監督として新居水竹と小倉富三郎が選ばれた。上京後、総代間に稲田家処罰の議論が高まり、水竹ら二人は彼らを説得したが抑えきれず、5月6日早朝、東京の一橋徳島藩邸から大村純安ら8名が脱帰するのを黙認し、5月13日洲本などを襲う庚午事変が起こった。水竹はその責任を問われて斬刑に処せられ(特に切腹を許される)、9月15日東京芝白金の徳島藩邸で切腹した。介錯人は原謹吾、介添人は益田武衛(共に水竹の弟子)。
 先妻鹿との間に五男一女。後妻たか(太政官少弁 林厚徳の妹)との間に一男一女あり。次女なるは水竹が明治政府に直訴しようと上京中の明治3年5月4日徳島で生まれた。

■ 新居敦二郎【にいあつじろう】 ■
      嘉永2年9月29日(1849)~大正6年3月23日(1917)
 徳島藩士。銃士三番隊。
 《字》臨吉《号》湘香 半峰 清虚
 新居水竹の次男。明治3年5月12日夜、夜営演習の名目で諸隊の兵が福島操練所へ召集されたとき、鉄砲を担いで行った。(『明治庚午徳島藩騒擾始末』より)。庚午事変処理に当った徳島藩大参事小室信夫の配慮により、明治3年9月4日獄中の父に面会。9月15日処刑の日まで孝養を尽くす。
 のち元老院の中書記生となり政府に出仕。かたわら自由民権運動の結社である徳島の自助社の幹部社員として活躍していたが、通諭書事件の起草者として禁獄2年の刑に処せられ、免官。出獄後、徳島中学校の幹事となり、明治14年徳島中学校長。明治19年北海道道庁長官付となり、庶務課・記録課に勤務。明治23年東京府庁第三課・貴族院事務局速記課編纂課・大蔵省秩禄処分調査局などに勤務。明治36年9月、札幌農学校から漢学講師に招かれる。明治40年9月、東北帝国大学農科大学に昇格し、農科大学書記から各学科入学試験委員・日英博覧会出品委員など各種委員、また蜂須賀家の嘱託も務めた。著書に『東園家集、付卓然堂遺稿』『水竹居詩鈔』がある。

■ 西川養拙(甫)【にしかわようせつ(はじめ)】 ■
                      ~明治37年2月(1904)
 《名》甫《通称》一平《号》養拙
 もと医を以て立ったが、芳川顕正、小室信夫らと尊王派に属し、岩倉具視の知遇を得る。明治2年6月徳島藩司計従事。同3年6月徳島藩権少参事。明治4年正月少参事。のち大阪堂島の米市場に進出し、磯野小右衛門と並び称された。その後大阪府会議員、のち議長。また、大阪日報社社主。大東日報社主。

 先頭にもどる

索引
参考資料
『公文録徳島騒擾始末』、福田憲凞著『阿波書人志』、竹治貞夫著『庚午事変関係新居水竹遺稿要解』、藤井喬著『阿波人物志』、阿部宇之八伝記刊行会『阿部宇之八伝』、宮本武史編『徳島藩士譜』、徳島新聞社『徳島県百科事典』、吉川弘文館『国史大辭典』『明治維新人名事典』、桑井薫編『明治三年徳島藩職員録並御分知御家中分限帳』、徳島県立文書館『第29回企画展幕末の儒者新居水竹』『特別企画展庚午事変の群像』を参考とした。
※今後、増改訂を行い内容を充実させていく予定です。
徳島県立文書館 学ぼう!楽しもう! 徳島幕末維新期 人名事典(C)
わ行 ら行 や行 ま行 は行 な行 た行 さ行 か行 あ行