徳島幕末維新期人名事典
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●か
■ 兼松又三郎【かねまつまたさぶろう】 ■
      天保5年(1834)~明治34年8月24日(1901)
 徳島藩士。銃士二番隊。
 文久元年相続(養子)。旧高300石。井上春城に漢学を学び、剣槍、弓馬の術を修め藩の御使番となり蜂須賀茂韶に従い、江戸・京都に度々赴いた。
 明治3年4月稲田家問題につき、東京の新政府に歎願する藩士総代10名の一員として上京、4月28日、藩士鎮諭のため、角村十右衛門と共に三間才兵衛に従って徳島へ帰った。そのため庚午の変に罪を免れ、のち風流の余生を送った。
 6才の時初めて坪井永太郎らの句会で秀逸となり、のち松丈園松丈に俳諧を学び、明治8年立机し、徳島県俳壇の巨匠となった。晩年は佐古町の万年山下に住み、大安寺の蜂須賀家の墓守となった。

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●こ
■ 小室信夫【こむろしのぶ】 ■
      天保10年9月30日(1839)~明治31年6月5日(1898)
 岩鼻県権知事(群馬県高崎市)。
 《通称》利喜蔵・信太夫《生》丹後国与謝郡岩滝村(京都府)。
 生家は生糸問屋商人で回漕業者を兼ねていた。文久3年、京都等持院にある足利尊氏らの木像梟首事件を起こし、徳島出身の中島錫胤と共に阿波の志摩利右衛門の別邸にかくまわれたが捕えられた。慶応4年2月釈放、徳島藩の大小姓に一躍登用された。明治元年徳島藩から徴士として朝廷に出仕。同2年岩鼻県知事となる。
 岩倉具視の内命により、稲田問題調停のため明治3年3月20日福島県権知事立木兼善と共に徳島に来て滞在していたが、調停ならぬまま復命のため、4月8日徳島を立ち帰京。庚午事変後、徳島藩大参事となって事態の収拾に当たった。
 明治4年少議官、同5年蜂須賀茂韶に同行し外遊してイギリスの立憲制度を視察。翌年帰国後、左院三等議官に就任したが、すぐ辞職。明治7年板垣退助らと共に政府に「民撰議院設立建白書」を提出。その後、実業界に移り、明治15年、北海道運輸会社を設立。また共同運輸会社の創立委員として日本郵船会社の基礎を築いた。明治24年貴族院議員。

■ 近藤廉平【こんどうれんぺい】 ■
      嘉永元年11月25日(1848)~大正10年2月9日(1921)
 徳島藩士。一橋徳島藩邸学校世話方。
 《号》恬斎《生》麻植郡鴨島町西麻植江川
 医家近藤玄泉の次男。文久2年徳島藩の中老仁尾内膳家の書生となり、同年輩の子息武衛(後の益田永武)と共に新居水竹の小心塾で学び、後、柴秋邨の思斉塾に転学。
 明治2年11月、外交方となって上京する阿部興人・益田武衛に同行して上京、一橋徳島藩邸の文学教授柴秋邨の下で藩邸内の学校世話方を勤めるかたわら、大学南校に入り英語を学んだ。新居水竹の着京後は、水竹の住む長屋に移って秘書を勤め、9月15日水竹の刑死切腹の際には、近親代理遺骸引取人の役を務めた。
 同5年大蔵省出仕星合常恕に随行、高知へ行き、星合常恕に勧められ、岩崎弥太郎の三菱商会(当時は三川商会)に入った。のち日本郵船会社社長。男爵。貴族院議員。第一次世界大戦後のパリ講和会議には全権委員の随員。大正9年従三位勲一等。

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参考資料
『公文録徳島騒擾始末』、福田憲凞著『阿波書人志』、竹治貞夫著『庚午事変関係新居水竹遺稿要解』、藤井喬著『阿波人物志』、阿部宇之八伝記刊行会『阿部宇之八伝』、宮本武史編『徳島藩士譜』、徳島新聞社『徳島県百科事典』、吉川弘文館『国史大辭典』『明治維新人名事典』、桑井薫編『明治三年徳島藩職員録並御分知御家中分限帳』、徳島県立文書館『第29回企画展幕末の儒者新居水竹』『特別企画展庚午事変の群像』を参考とした。
※今後、増改訂を行い内容を充実させていく予定です。
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