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■ 奥井莊介【おくいそうすけ】 ■
文政9年(1826)~明治19年11月2日(1886)
文政9年(1826)~明治19年11月2日(1886)
一橋徳島藩邸の文学教授。
《生》淡路洲本《号》寒泉
文久3年学問所司読、明治元年儒官。明治2年洲本の文学教授。同年11月柴秋邨の後任として一橋徳島藩邸の文学教授。廃藩後は師範学校、中学校の教員。また有栖川宮熾仁親王の侍読を勤めた。
《生》淡路洲本《号》寒泉
文久3年学問所司読、明治元年儒官。明治2年洲本の文学教授。同年11月柴秋邨の後任として一橋徳島藩邸の文学教授。廃藩後は師範学校、中学校の教員。また有栖川宮熾仁親王の侍読を勤めた。
■ 小倉富三郎【おぐらとみさぶろう】 ■
文化12年(1815)~明治3年9月13日(1870)
文化12年(1815)~明治3年9月13日(1870)
徳島藩学館管事。
天保6年相続(養子)。旧高20石。初め佐古万年山の御墓山番、のち槍術師範。明治2年徳島藩の新禄制により四等学館管事に任命された。
明治3年稲田家問題につき、藩士総代10名を東京の新政府に派遣し歎願することになり、その監督として新居水竹と小倉富三郎が選ばれた。上京後、総代間に稲田家処罰の議論が高まり、二人は彼らを抑えきれず、5月6日早朝東京の一橋徳島藩邸から大村純安ら8名が脱帰するのを黙認した。『除奸説大意』はこの当時書かれたものである。5月13日庚午事変が突発、変後富三郎はその責任を問われて斬刑に処せられ(特に切腹を許される)、9月15日東京芝白金の徳島藩邸で切腹した。介錯人は西尾源吾。これはわが国で公式に行われた最後の切腹である。
天保6年相続(養子)。旧高20石。初め佐古万年山の御墓山番、のち槍術師範。明治2年徳島藩の新禄制により四等学館管事に任命された。
明治3年稲田家問題につき、藩士総代10名を東京の新政府に派遣し歎願することになり、その監督として新居水竹と小倉富三郎が選ばれた。上京後、総代間に稲田家処罰の議論が高まり、二人は彼らを抑えきれず、5月6日早朝東京の一橋徳島藩邸から大村純安ら8名が脱帰するのを黙認した。『除奸説大意』はこの当時書かれたものである。5月13日庚午事変が突発、変後富三郎はその責任を問われて斬刑に処せられ(特に切腹を許される)、9月15日東京芝白金の徳島藩邸で切腹した。介錯人は西尾源吾。これはわが国で公式に行われた最後の切腹である。
■ 尾関成章【おぜきなりあき】 ■
天保2年(1831)~明治6年4月10日(1873)
天保2年(1831)~明治6年4月10日(1873)
徳島藩権大参事。
《通称》源左衛門《号》扇江
弘化3年9月相続。旧高500石。奥小姓役より御勤役、町奉行、御目付役、本〆役に進み、蜂須賀茂韶の傅となった。茂韶が江戸・京都に赴く際、いつも随従して補佐し、藩論を勤王に統一した。維新後、徳島藩権大参事となり、庚午事変の処理に苦慮した。庚午事変により謹慎50日。明治4年9月退官し、名東郡八万村旭山下に隠棲。
《通称》源左衛門《号》扇江
弘化3年9月相続。旧高500石。奥小姓役より御勤役、町奉行、御目付役、本〆役に進み、蜂須賀茂韶の傅となった。茂韶が江戸・京都に赴く際、いつも随従して補佐し、藩論を勤王に統一した。維新後、徳島藩権大参事となり、庚午事変の処理に苦慮した。庚午事変により謹慎50日。明治4年9月退官し、名東郡八万村旭山下に隠棲。