開館10周年記念 特別展
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久保煉瓦工場のレンガ

久保煉瓦工場生産のレンガ
(江刺市・セラミックアートセンター)


 久保兵太郎は、1864(元治元)年、名西郡下分上山村(現神山町)で、代々醸造と木材の仲買を営んでいた素封家久保栄太郎の長男として出生。
 兵太郎の才覚は小さいころから村びとたちの厚い信頼を得ていた。父・栄太郎が村の戸長を辞し商亮に戻った際行われた戸長選挙で、意外にも15歳の兵太郎が当選するほどであった(あまりの若さのため任命はされなかった)。その後役人になるため上京、鉄道局に入った。しかし、それは兵太郎の肌には合わなかった。
 郷里を出て同じく鉄道庁の役人となり、鉄道工事用料の検査官吏となっていた父・栄太郎は、それまでの事業経験からレンガの製造事業を思い立ち、当時地理的条件のそろっていた山梨県に製造工場を設けようとしていた。ちょうどその頃あい前後して北海道炭砿鉄道株式会社(北炭)から、野幌に直営のレンガ製造工場を開設するにあたり、その工場の経営管理者としての招きがあった。1897(明治三十)年のことである。このとき兵太郎も北海道に渡り、そして製造所のいっさいの責任をもつことになる。


久保煉瓦工場で働く人びとと久保兵太郎

久保煉瓦工場で働く人びとと久保兵太郎
(2列目左より3人目)


 当時、レンガは、鉄道・港湾などの建築材料として欠くことのできないもので、需要は増加する一方であった。北海道開拓途上において、鉄道敷設産業・交通の進展をもたらしたが、この鉄道建設に必要なレンガの大部分を生産する好機をつかみ、道内六か所のレンガエ場を経営。地元の人びとはこの工場を「久保煉瓦工場」と呼ぶようになった。さらに、洋風の耐火建築・鉄道機関庫・港湾などの工事材料としてますますレンガが必要になると考えた兵太郎は、東京・山梨・長野・鹿児島、さらに台湾にまでおよぶ全国十数か所にレンガの販売所を設けた。1907(明治四十)年には、久保組の年間生産能力は一千万本に引上げられたといわれる。
 また、この工場で働いたのは、地元の人びとのほか元屯田兵やその家族、毎年新潟県などから来る移住者たちであったという。兵太郎は、この人たちにレンガづくりの技術を教え、それが彼らの生活を潤す糧となることを考えていた。また、レンガ製造用の燃料の多くを地元の農家から買い入れるなどして、農家の出稼ぎを防ごうとした。
 今日も、北海道開拓の記念碑として残されている旧北海道庁改築時の赤レンガにも、久保兵太郎の工場でつくられたレンガが使用されている。
 “レンガの久保”といわれ全国にその名を馳せた久保兵太郎は、多くの慈善的事業をも残し1933(昭和八)年、70歳の生涯を終えた。

 


 

明治6年頃、阿波北方の同志の女性と政府に陳情、東京で記念撮影、写真右が中林ナカ

明治6年頃、阿波北方の同志の女性と政府に陳情、東京で記念撮影、写真右が中林ナカ
(由岐町役場保管)


 中林ナカは、1848(嘉永元)年、海部郡木岐村(現・由岐町木岐)で柿本友太郎の二女として出生。明治初期から中期にかけて、「五か条の誓文」を盾にして「五反ならし」の民権運動に奔走した。また土地均分化の要求にとどまらず、まだ厳然として残る身分制や貧富・職業による差別、男女差別の撤廃を叫んで阿波の各地を同志とともに遊説した。彼女たちは、維新の世に「世直し」「世ならし」による平等な社会の実現を夢みたが、それがことごとく裏切られてゆく現実を見て運動に立ちあがった。
 1887(明治二十)年を前後にして「神代復古誓願」運動という「世直し」を求める民権運動が高まるが、その運動と中林ナカらの「五反ならし」運動は連動していたといわれる。官憲の弾圧によってこの運動は挫折するが、その後、中林ナカは家族とともに北海道移住開拓の道を選んだ。
 明治初年からすでに始まっていた本県からの北海道への移住は、明治二十年代半ばころより毎年1000人をはるかに越えるようになるが、中林ナカも1895(明治二十八)年6月、徳島から北海道胆振国勇払郡厚真村に移住。叶わぬ「五反ならし」の夢の実現を北海道の未開の地に求めたのであろうか。その後、1906(明治三十九)年9月、天塩国苫前郡初山別村に転住、そして1907(明治四十)年2月に「風連別」原野に1万5000坪(5町歩)の未開地を畑目的に開墾するため無償貸付を願い出、翌1908(明治四十一)年1月北海道庁より許可されている。開拓は五か年計画であった。しかし、そのゆくえには筆舌につくし難い多くの苦難が待ちうけていたであろうことが推測できる。身分や貧富の差による差別に立ち向かい理想を追い求めずにはいられなかったひとりの女性とその家族の勇気ある生き方がそこにうかび上がってくる。
 中林ナカとそれにつながる人びとのその後の行動の軌跡を追うことは、一個人史の枠を越えて明治期の徳島、ひいては近代日本が抱える課題そのものに迫ることになると考えられる。
 中林ナカらの勇気は、結局、明治政府のめざす富国・殖産政策、北海道拓殖計画の礎となって吸収されてしまったとしても、世代を越えて生きることの勇気を後世の人びとに伝えている。中林ナカは1931(昭和六)年、北海道で83歳の生涯を閉じた。

 

中林ナカと同志たちが唱えた「五か条の誓文」の解釈の一部

「旧来ノ晒習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ズクベシ−」

コノ旧来ノ晒習ヲ破リト申スハマズ公家ガ冠直垂(かんむり・ひたたれ)着テ生レルモノデモナシ武士ガ鎧兜(よろい・かぶと)ヲ着テ生レルモノデモナシ、(中略)等シキ人ニ区別セヌヨニスルガ旧来ノ晒習ヲ破リ天地ノ公道ニ基キマスルト、漁夫ノ子デモ馬方ノ子デモ知識ノ有ル人ヲ世界ニ求メナケレバナラヌ (以下略)

 

 

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