開館10周年記念 特別展
<<前ページ次ページ>>TOP

岡本韋庵(1839〜1904)

岡本韋庵
(1839〜1904)

 初期の北海道開拓に大きな足跡を残した県人に岡本韋庵(文平・監輔)がいる。韋庵が樺太に興味を持ったのは、徳島の岩本贅庵や高松の藤岡三渓に師事したころに北蝦夷地(樺太)の話を聞き、文久元年(1861)21才の時、江戸に出て間宮林蔵の「北蝦夷図説」に触れたことによるとされている。当時の樺太の状況は、安政元年(1854)12月に結ばれた日露和親条約で日本とロシアの国境を分けない雑居地となっていた。
 北辺の防備に強い関心を持った章庵は、文久3年(1863)6月に単身で樺太南部を探検し、10月に箱館に帰り、また翌元治元年(1864)4月には許可を得て東岸タライカ湾(テルペニエ湾)内のタライカ付近を中心に再調査し、南部で越冬している。さらに慶応元年(1685)5月には3度目の調査として、幕命を受け西村伝九郎を伴って樺太奥地に入り、東岸を北行し6月25日に北端のガヲト岬に達して「日本領、岡本文平建立」の標を立てたとされる。その後西岸を南下し、黒龍川河□などシベリア東岸を含めて11月に日本人として初めて樺大全土の調査を完了し、当時の箱館奉行杉浦兵庫頭に意見書を提出している。
 翌2年(1866)京都に帰り、山東一郎らと「北門社」を結成して北地開発の急務を説き、3年(1867)には『北蝦夷新誌』という樺太の地誌を刊行している。また、明治維新後の北海道経営の中心的な役所、箱館裁判所の総督となる清水谷公孝家に寄寓し、土佐藩の坂本龍馬に北地開発意見書を陳情するなど活発な活動を行っている。
 明治元年(1868)4月韋庵は、箱館裁判所従五位権判事に任ぜられ樺太全島一切の開拓事務をまかされ、京都から敦賀経由で箱館に赴いた。6月には農耕民200余人を率いて外務大丞丸山作楽とともに、樺大南岸のアニワ湾内のクシュンコタン(久春古丹大泊)に入り、公議所を置いて樺太開発を強化して行ったが、入植当時から南樺太の雑居化を計ろうとするロシアの中佐テフラートとの交渉に苦労していた。翌2年6月には、ロシア軍が樺大に上陸し函泊を占領するという事件が起きるなど、ロシアとの交渉は困難を極めていた。
 7月明治政府は北海道に開拓使を置き、韋庵も判官となり一時箱館に戻っていたが、9月には農工民400人を率いて再び樺太へ渡って行った。翌3年(1870)1月には丸山作楽が函泊でロシア側と交渉を持つが、妥結しないなど厳しい状況は変わらなかった。2月には明治政府によって樺太開拓使が置かれ、ロシアとの交渉を強化しようとするが、一方で北海道の開発を優先する樺太不要論も出てきていた。
 対ロシア間題とともに5月から北海道開拓使次官となった黒田清隆は、同時に樺太の専務となり同地の視察を行っている。10月帰京した黒田は韋庵とは意見が合わなかったのか、北海道・樺太開拓に関する建議を行い(いわゆる「十月建議」)、樺太放棄論を唱え、明治政府の北方政策に強い影響を与えた。同じころ韋庵は免職願いを提出し認められている。翌4年(1871)32才の時、春3月を待って樺太を引き揚げ札幌に戻ることになった。7月には開拓使御用係となり札幌に滞在し、『窮北日誌』『北門急務』という樺太開発の必要を説いた本を執筆するが、樺太の地を訪れることはなかった。その後政府の方針も樺太放棄論に傾き、9月には樺太開拓使が廃止され、ついに明治8年には千島・樺太交換条約によって、樺太を全面的に放棄することにいたった。
 章庵はその後教育界において多くの業績を残すことになるが、明治25年には千島列島の開発を目指して「千島義会」を興すなど、青年時代の北地開発の夢は晩年まで持ちつづけた。

幕末北蝦夷地経営図
『新北海道史』より引用。

 

 

開館10周年記念 特別展
<<前ページ次ページ>>TOP

詳しい内容のお問い合わせは下記までお願いします。

〒770-8070
徳島市八万町向寺山 文化の森総合公園内
TEL 088-668-3700
FAX 088-668-7199
Copyright:徳島県立文書館.2000