公開公文書の中から【第4回】

  明治期の寺社関係公文書(3)
                          明治7年 忌部神社御再興調

 寺社関係公文書の3冊目は、名東県時代の明治7年(1874)に作成された「忌部神社再興調」である。2冊目に取り上げた神社の官祭に関する書類との関連で作成された簿冊であろう。
 忌部神社は、式内社(延長5(927)年に編纂された延喜式神明帳に含まれる神社)ながら、所在不明で、麻植郡の川田村・山崎村(現吉野川市)、美馬郡の貞光村などいくつかの候補地があった。 
「忌部神社再興調」表紙 写真1


 まず、この簿冊の件名を書き抜いてみよう。

 1.国弊中社忌部神社御祭典興サセラル概略 (名東県用箋を使用。高知県社寺係の印有)
 2.社地と平願(社殿造営費下げ渡し願い) 明治10年 国弊中社忌部神社宮司蜂須賀隆善→   高知県権令小池国武 (忌部神社社務所用箋を使用)
 3.忌部神社社地平均御手伝且宮殿御造営祈願之上申 明治9年11月 阿波国第五大区麻植 郡 3小区山崎村惣代木村正平他16名 → 忌部神社宮司御中 (忌部神社社務所用箋を使    用)
 4.開扉祝詞


 このうち1.の「国弊中社忌部神社御祭典サセラル概略」は、いくつかの文書の写しからなっている。辛未(明治4年)8月8日に徳島県の西出張所が出した各候補地の調査報告書の写し。辛未(明治4年)8月に名東県の権少属であった小杉椙邨(歴史学者)の建言の写しがあり、この二つの文書は神祇省に進達されたことが朱書きされている。
 さらに明治7年2月2日に名東県権中属兼大講義小杉椙邨が教部大輔宍戸璣に出した報告書の写しがある。これには、考証資料として麻植郡小五区三木山(現吉野川市)の三木家文書を掲げてある。さらに宍戸から太政大臣三條実美への伺い文書の写しなど、国弊中社忌部神社が決められていく過程がよくわかる文書である。その後も、忌部神社の場所探しの文書が続いている。



忌部神社御祭典興サセラル概略 写真2



名東県権中属賢台講義小杉椙邨から教部省への報告書写し 写真3


 これらの調査により忌部神社は、麻植郡の山崎村に決められた。明治7年12月22日には太政大臣三条実美より、名東県参事西野友保宛てに、山崎村天日鷲神社を正式に旧忌部神社と実検したと書き送った分の写しが残されている。



忌部神社に関する教部省達 写真4



 小杉椙邨:(1834〜1910)明治時代の国史、国文学者。文学博士。歌人。家は中老西尾志摩の家臣。天保5年12月徳島に生れ。池辺真榛に学び、後本居内遠に師事する。明治2年徳島藩校長久館国典教授、4年県少属戸籍兼社務係、明治7年教部省に出で、のち文部省で『古事類苑』の編集に従事、10年内務省に出仕して社寺考証に当る。東京帝国大学講師、帝室博物館(国立博物館)鑑査係、古社寺保存委員、美術学校(東京芸術大学)教授、宮内省御歌所参候。古文書、古記録蒐集し『微古雑抄』を編集。
--------------------------------------------------------------------------------------©2007.7金原祐樹