平成18年度 歴史講座 【第5回】

庚午事変とその関係文書からの問いかけ
講師 松本 博 氏

 「庚午事変・稲田騒動」という事件はあまりに複雑で一言でお話しすることはとても難しいことです。しかも民衆(収奪されている人。抑圧を受けている人。差別を受けている人。この時代をもう一歩前へ進めていきたいと思っている人。この様な人たち全て。)の姿を研究対象としていた私は、「庚午事変・稲田騒動」の研究からかなりの期間離れていました。この事件については多くの諸先輩の方々がたくさんの資料を紹介していただいていますが、どうも民衆の姿が見えてこなかったのです。しかし、今回の文書館の展示に向けての勉強会の過程で、少しだけ民衆の姿が見え始めてきたのではないかと感じます。例えば、国立公文書館が所蔵する公文録の検討から、洲本襲撃に士族でない身分の人たちである農兵が1,478名参加していることなどが判明したのです。
公演中

1 庚午事変・稲田騒動との関わり
 私と「庚午事変・稲田騒動」との関わりは、昭和35(1960)年の大学の卒業論文のテーマとしたことに始まります。
 卒論のテーマを明治維新期と考えていましたが、その頃はまだ『徳島県史』も出ていなかったけれども、いろいろな出会いによって決めていきました。私の主任教官であった横田健一先生から紹介された方に後藤捷一先生がおり、大阪の三国本町の自宅までお伺いして、お話を聞くことができましたことが懐かしく思い起こされます。後藤先生から「庚午事変に関する研究にはろくなものがない。」という言葉をいただき庚午事変の研究をすることに意を強くしましたが、実はその言葉の真意は別にあったのです。たくさんの近代史料を紹介していただいた中に後藤先生自身が寄稿された『兵庫史学』という雑誌がありました。事件の具体的な基本史料の紹介でした。
 淡路の洲本図書館で出会った資料に、昭和29年(1954)に出た本で淡路方の人たちの心情が非常に良く表れた資料『増補稲田家昔物語』があります。又、徳島県立図書館で出逢った資料に徳島毎日新聞の記者であった井上羽城さんが昭和4年5月から7月にかけて新聞に連載された「庚午事変稲田騒動 60年前の夢明治維新の犠牲」があります。これは公文書などもたくさん載せられて、徳島寄りではありますが、客観的に書かれています。これらを今のようにコピーなどはないのでペンで写しましたが、遅々として進まなかった記憶があります。さらに、洲本が攻撃されたとき自殺に追い込まれた藤井一郎の孫である藤井恪三さん(当時の洲本稲田会の会長)に直接会いに行ったこともあり、お叱りを受けながらも貴重な資料をいただいたこともありました。
 卒業論文は『日本歴史』175号に「蜂須賀藩における庚午事変稲田騒動とその諸環境」として掲載されました。その後研究報告をする機会ごとに感じたことは、当時はまだどうしても徳島方か、淡路方かという庚午事変を評価する立場の違いの影響が強く残っていたのかなという気もします。このとき後藤先生が「庚午事変に関する研究はろくなものがない。」といった真意は、庚午事変・稲田騒動を歴史上の出来事として整理をしてきっちりと日本の歴史の流れに乗せるような営みができていないところにあるのだということに気づいたのです。
 その後、昭和36年に金沢治先生が中心になって出された『庚午事変とその前後』、八丈島へ流罪となった平瀬所兵衛の孫、平瀬金造さんが出された『庚午事変の面影』などの本にも出会うことができました。
 ここで、昭和43年にNHKが制作してラジオ放送した、歴史のふるさと「最後の切腹」のテープを聴いていただきます。金沢治先生、新見貫次先生を始め今では貴重な証言ばかりです。私も案内役をさせてもらっています。

〜30分ほど録音テープの紹介〜

2 騒動の歴史的背景
 騒動の歴史的背景にはいろいろな説があります。まず、藩政初期の蜂須賀氏と稲田氏の関係を重視する必要があるのではないかという説。蜂須賀氏が播州にいる頃稲田氏も2万石の大名になるはずであったのに蜂須賀氏に稲田氏は友情関係によって従ったという経緯があるといわれます。
 次に稲田家の役職である洲本城代の成立事情です。かなり資料をあさりましたが判然としないところがあります。実際に洲本城代がどういう役職でどのような職務であったのか、時代によっては名誉職のようになっていなかったのだろうかなどの不明点があります。 
稲田陪臣層は3000人あったといわれますが、全ては武士ではなかったとされています。農民身分から武家奉公人の形で仕えていた人も多かったといわれます。また、稲田家は大坂に蔵屋敷を持っており、利殖をすることができたといわれます。具体的にどんな経営が行われていたのかはわかりませんが、そういった経済力に養われながら稲田陪臣層が活躍できたという流れがあります。
 また徳島藩と稲田家家臣との間には学問の流れの違いがあります。小倉富三郎の史料を見ていただいてもわかると思いますが、徳島の学問は儒学・朱子学が強く表れていますが、淡路では本居宣長以前から庶民の中にも国学の流れがあったとされています。
 さらに、直臣と陪臣の差別です。稲田家の家臣は浅黄色の足袋をはかされ、見たらすぐに陪臣であることがわかるようになっていたというような差別がありました。
 そうした様々な確執の上に、維新の変革による禄制改革や身分制の改革があり、大きな事件が起こったのです。
 もう一つ強調したいことに淡路の政治地理的環境があげられます。幕末開港以来、淡路は紀淡海峡や明石海峡を押さえる重要な政治地理的環境にありました。その中で「右(淡路島)総押さえは家老稲田九郎兵衛へ委任つかまつり」とあります。さらに「土着の士も指し置き」とあり、文久年間頃から農兵が海防に関わっていたことがわかります。さらに淡路の菊川兼男先生の淡路農兵の研究によれば、農兵の大部分は淡路の蔵入地(徳島藩直轄地)の百姓であり、稲田家の給知農民は農兵となっていないと資料に基づいて言われています。そういった農兵達が洲本攻撃に加わっていたとすれば、稲田家がそうした農兵を厳しく使役していたということが裏にあるのかもしれないという推測もできるのではないでしょうか。
 新見貫次先生は『洲本市史』の中で、「稲田方を洲本まで徳島から攻めに来たように考えると間違う。初めから両者が洲本の町中に雑居していて、隣のものを攻めると言うこともあり得たのである。主として洲本市内同士での争いであったことを考えねばならない。」と記されています。その一方、庚午事変・稲田騒動ではかなり暴虐な振る舞いもあったとされています。さらにこの他にもいろいろな事実が隠されているように思えるのです。

3 武田家文書の「時勢見聞録」
 美馬郡東端山(現つるぎ町)の庄屋武田家には「時勢見聞録」という資料が残されています。この資料は民衆の立場から庚午事変・稲田騒動を考えるときに重要な資料だと考えるので紹介します。
武田家文書「時勢見聞録」 タケタ00007
 まず、美馬郡代が村々へ出した「達し」です。これは戊辰(慶応4年・明治元年 1868)正月23日に出されたものです。内容は阿波国から出された「制札」はこれまでどおりそのままにしておけ、公儀(幕府)からの御制札はことごとく撤去して庄屋宅に置き郡代所に差し出せ、としています。幕府の言うことは聞かなくて良いが、藩の言うことはこれまでどおり聞きなさいということです。正月3日には鳥羽・伏見の戦いが始まり、7日には慶喜追討令が出され、2月3日には天皇親征の詔が出るというような時期です。
 その次の史料は、稲田九郎兵衛に宛てた朝廷からの指令で、慶応4年正月2日に出された勤王・討幕派での活躍を証明するものです。これは『民政資料』にも紹介されています。
「時勢見聞録」内容
 次の資料は知事蜂須賀茂韶が明治2年9月12日に藩士に対して出した資料で、兵制改革に失敗し、戊辰戦争に行くことは行ったけれど、十分な活躍ができなかったことに対して他藩から笑いものになっていることが悔しいという内容です。今後万一のことがあれば藩を挙げて王事に尽くさなければならないとしており、この経緯をふまえて藩士達が庚午事変の時立ち上がったという側面も考えなければなりません。
 さらに次は、稲田家を襲撃したときに建てられた阿波と淡路の各地に「建札」です。稲田が許せないと言うことを書いた檄文です。
 おわりに
 今後さらに庚午事変の真実をあきらかにするためには、維新史の矛盾の中身、指令がどう出されどのように通用したのか、というような権力の秩序がどうであったのかを考えなければならないでしょう。
 庚午事変・稲田騒動の直前に、戊辰戦争で活躍した長州の奇兵隊らが藩の常備軍を編成する際に「脱隊騒動」を起こし、木戸らに切り捨てられていくという事件が起きます。このとき農民一揆と一緒になって大騒ぎになっています。北海道大学の田中彰さんはこの時期について「複合的矛盾が重層的な危機を招いている。」と述べています。これは底辺に農民達の世直し一揆があり、その上に脱藩浮浪の徒・草莽等がいて士族の批判をしていること。さらにその上で薩長藩閥と旧幕府派がせめぎ合っていること。さらにその上に王政が存在し、藩閥がその権力を取り込もうとしていること。どの階層を見ても複合的な矛盾がありせめぎ合っているのが明治2年・3年の状況なのだとしています。
 これまで庚午事変は武士同士の私闘であり民衆の姿が見えてこないと考えてきました。しかし、史料やこれまでの研究により農兵の問題を始め、様々な階層の動きが見え始めて来ているのです。
----------------------------------------------------------------------------©2007.03  記録 金原祐樹