こんな史料がありました【第5回】

  流れてきた土州(高知)材木

 阿波国を流れる1番の大河といえば、吉野川です。吉野川は、阿波国内だけでなく伊予国・土佐国の国境をまたいで流れる河川です。この史料は、文書館所蔵の谷家文書の中にある、天保11年(1840)阿波における吉野川最上流部、山城谷(現三好市山城町)に流れてきた土佐の材木を処理することによって誉め状をもらったという史料です。
 

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           美馬郡西端山           
   谷幸三郎
 右之者儀、昨年土州材木流散ニ相成候節、
 山城谷阿戸瀬より上筋ニ有之分曳登之義ニ付、
 度々入込本数等相調其後打続出張仕、格別
 嶮難之場所柄ニ候処、人夫裁判等心ヲ付彼是
 出精相勤候都合宜相運候段尤之事ニ候、
 依之金二百疋被下候
   六月廿五日
 右之通御当職御書付ヲ以被仰渡候ニ付、令
 写指出者也    
          三間勝蔵
  天保十一子年七月
      西端山
        谷幸三郎とのへ


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 現在は四国の水瓶として名高い早明浦ダムのある吉野川最上流の本山郷は、土佐でも一番の林業地帯でした。本山郷の北部白髪山は、江戸時代中期まで大坂市場を賑わした土佐ヒノキの産地だったのです。江戸時代初期の元和8年(1622)から白髪山を中心にする本山郷地域の材木伐採が行われ吉野川を利用して鳴門の広戸口まで流し、大消費地大坂へ出しました。徳島藩は土佐藩の動向にあわせて、吉野川上下流に法令を布告し土佐流材の本格的な流通に対応しています。
 徳島藩としては、土佐藩から分一所において(例えば岩津分一所)などの関税を取ることができた上、流木に伴い筏師などの藩内雇用創出により経済効果も大きかったので、積極的ともいえる好意的な態度をとっていたのです。


 しかし、150年以上も後、天明8年(1788)2月22日、阿波・土佐両藩間で、土佐材木の吉野川流材全面停止となります。本山郷などでの森林伐採が進みすぎ、山林が荒廃し吉野川の洪水が増加するようになったこと、天明5年(1785)正月に岩津に貯木していた土佐材がにわかに増水した川水のため流れ出し、堤防や護岸を突き破って人家や田畠に大きな被害をもたらすという事件があったことなどにより、この後吉野川沿岸の村々から土佐流材の停止を求める嘆願が出されるようになり、阿波側の都合により土佐流材は全面停止となったのです。

 この史料はその更に50年以上後、天保11年(1840)のものです。作成者である三間勝蔵は美馬・三好郡代で両郡を束ねる民政官であり、谷幸三郎は西端山(現つるぎ町端山)の庄屋です。郡代の要請により、山城谷の吉野川上流地域のとても嶮難な地域で材木を集める等の厳しい仕事を中心になって行ったことに対して誉め状と共に報奨金として金二百疋が与えられてのです。この誉め状は、元は当職(仕置家老のこと)が郡代に与えた書付であり、さらに郡代が写して谷幸三郎当人に与えたものです。元の書付は郡代の元にあったはずです。

 土佐藩は木材流通を容易にするため、天明8年以降たびたび流材の再開を求めていましたが、徳島藩は一貫して「国の災害に相成る次第」であるという原則拒否の態度で臨んでいました。そのような中で起きた土佐材流散の事件だったのです。 

参考文献 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  ┃(財)徳島地域史研究所編『四国のいのち吉野川事典』(1999年 農文協)┃
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