平成18年度 歴史講座【第2回】

明治〜昭和初期の徳島と繁華街の形成
     〜商業空間から見た近代都市・徳島の変容〜

講師 四国大学  関口 寛 氏

 消費社会とも呼ばれる今日、ショッピング(買い物)は、庶民にとって「娯楽の王様」といっても過言ではない地位を占めています。このショッピングを楽しむことのできる繁華街は、徳島においてどのように成立してきたのでしょうか? 今回は、明治期から昭和初期における徳島の商店街を中心とした繁華街形成の歴史を、新聞資料や写真資料を交えながら振り返ります。

Ⅰ 近代都市と繁華街
関口寛氏 今回のお話において、「繁華街」とは商店街を中心とした賑わいの場を指すものです(似た言葉として「盛り場」という語がありますが、これは夜に賑わう飲み屋街・歓楽街などを含めたもう少し広い空間を指す概念です)。
 19世紀以後、鉄道に代表される近代的な交通基盤が整備されることにより、人々の生活圏は広がっていきました。それまで居住地域周辺に限られていた行動範囲が、居住地を離れて広がっていったのです。すると、それまで顔なじみの仲で行われていた商行為は、顔見知りでない人々が集い、互いに無関心な関係のまま行われる商空間へと変わっていきます。
 こうした近代的な商業スタイルを作り上げたのは百貨店であると言われています。1872年、フランスに「ボンマルシェ」というデパートが誕生しました。そこから正札販売、現金販売、返品・取り替え自由、品質保証など、現代では当然になった商法が生まれました。これは近代小売業を決定的に変えた出来事でした。
 特に陳列販売がもたらした変化は重要でした。それまでの買い物といえば、薄暗い店の中で、欲しい商品を客が伝えます。すると店員が裏の棚から値札の付いていない商品が出してきます。客はそれから値段交渉をしなければなりません。商品知識の乏しい客は、店員の差し出す物以外に商品を選ぶこともできず、不利な立場で買い物をしなければなりませんでした。陳列販売によって人々は、すべての商品の中から気に入った品を、自由に購入することが出来るようになったのです。
 デパート商法は大変な評判を呼び、広がっていきました。日本においても三井呉服店が1904年(明治37)、東京・日本橋に「三越」を誕生させています。「三越」は「デパートメント宣言」を行い、それまでの番頭さんによる対面販売である「座売り」から、自由に商品を見て選べる陳列販売への転換を図りました。こうした商法は多くの人々にショッピングという娯楽をもたらしたのです。

講演中


Ⅱ 徳島における繁華街の形成
 では、この娯楽としてのショッピングがどのようにして徳島にもたらされたのか、まずは、徳島での明治から大正期における小売商法の転換について見ていきます。
 商品の陳列という点から見ると、博覧会・展覧会の存在は見逃すことができません。徳島では廃藩置県が行われた直後の1872年(明治5)、旧徳島城において展覧会が開催されました。これは単なる展示だけではなく、地方特産品などの販売も伴なっていました。こうした展覧会開催は、日本も出品した第2回パリ万博(1867年)の影響によるものと考えられますが、徳島での開催は日本国内初の京都で行われた博覧会のわずか1年後という早いものでした。
 その後、この博覧会を公的に常設化した施設が全国的に作られていきました。徳島では、1881年(明治14)に「徳島県物産蒐集所」、1907年(明治40)には「物産陳列所」(のち「商品陳列所」)ができ、商品が棚に並べられた陳列販売が行われました。その後、個人商店においても陳列販売をする店が現れました。特に東新町の中心にあった「山下洋品店」はショウウィンドウがとても立派で、人目をひく店頭装飾を行っていたと伝えられています。
 さらに東新町に「観商場」という施設が作られました。これは関東地区での「観工場」と同類の施設で、小さな商店が寄り集まって商品を並べ陳列販売する場所です。大正から昭和にかけて活躍した文化人・林鼓浪は「新町橋筋を、東新町へ曲がる山手側にあった観商場は入り口が2ヶ所で、入ると五間程奥へ突当たってグルッと回って表に出るだけのざっとした構えであったが、場所柄がにぎやかな通り筋だったので、ひやかしの客がゾロゾロと入ってなかなか繁盛していた。」と書いています。
 このようにして、大正期の徳島には新町を中心に陳列販売を行う商店が増え、人々が集まる繁華街が形成されて行くようになったのです。
 その後、昭和初期にはいると、徳島では鉄道やバスの利用客が飛躍的に増大するようになります。統計書などで調べた数字によると、昭和にはいってから10年代までにはそれ以前の3〜4倍にもなり、それほど人々の活動は活発化していきました。
その一方、昭和初年の金融恐慌に始まった経済不況は長引き、徳島の地域経済に打撃を与えました。農村は疲弊し、銀行や商店の倒産が相次ぎました。
 そんななか、経営が厳しくなった都市圏の大手百貨店は、地方に出張販売をかけるようになりました。徳島には1930年(昭和5)、「三越」が徳島城内の武道館で出張販売を行っています。こうした大手百貨店の攻勢に対して、徳島の呉服店はこぞって反対し、反百貨店運動を繰り広げました。
 徳島の商店街は徳島商工会議所を中心にして、商法改善運動への取り組みを強めました。日本商工会議所から講師の派遣をうけて講演会を開き、正札・陳列販売を励行しました。その結果、1935年(昭和10)の繁華街調査では正札販売100%、陳列販売約80%になっていました。さらに、街頭マラソンや仮装行列・花火などのアトラクションを行う商業祭を1930、31年に開催し、人々へのアピールに努めていきます。
 「三越」では1931年に2回、1932年には徳島市と撫養(現鳴門市)で4回の出張販売を行っています。しかし、全国的な反対運動や法規制に向けた動きなどにより、こうした出張販売は下火になりました。
 運動は、商業空間自身を変えて行きました。まず1931年に籠屋町にアーケードが作られます。もともとは夏の強い日差しから展示した商品を守るための日よけとして作られたものですが、このことにより、商店街は雨天でも安心してショッピングを楽しめる空間に生まれ変わりました。こうしたアーケードは東新町・西新町・新町橋筋に広がっていきました。また街灯もすずらん灯に統一され、商店街の中で一体的な雰囲気が演出されました。
 また1930年には新町橋筋の道路が舗装されました。道路の舗装には県費補助が半額ありましたが、あとは地域住民の持ち出しです。しかし、雨天時の交通事情を改善するため、商店街は道路舗装を積極的に周辺へ拡張していきました。
 さらに「誓文払い」(売り出し・バーゲン)などの催しを繁華街の中で合同化、定期化するようになりました。もともと「誓文払い」は10月に行われる行事でしたが、各商店がバラバラに行っていたため効果は低いものだったのです。その後、共同売り出しは6月・8月・10月・12月と年4回も行われるほどになりました。
 このような繁華街の改善は、遊覧の場としての繁華街を作り出し、新町をウインドウショッピングしながらそぞろ歩く「新ブラ」という言葉を生み出したのです。


戦前の新町商店街


Ⅲ おわりに
 1934年(昭和9)には、東新町に「新町百貨店」(後の「丸新百貨店」)が誕生します。これは市内の26商店が共同し、百貨店の開店にこぎつけたものでした。場所は「観商場」「山下洋品店」の跡地という、まさに繁華街の中心地でした。また、翌1935年には西新町の呉服店、「一楽屋」が作った「一楽屋百貨店」が開店します。こうして徳島にも本格的な百貨店時代がやってきたのです。
 新町の百貨店と商店街は、戦後も長い間、徳島の庶民のあこがれの場でした。これら徳島の商店街の多くは戦災により失われましたが、戦後に復興し再び活気ある繁華街が甦りました。
 現在、その「丸新百貨店」も閉店し、繁華街は厳しい状況になっています。しかし、先人が多大な困難を乗り越えて築き今日に残してくれた繁華街の歴史を振り返ってみるとき、その遺産をわれわれが大切にし、後世に伝えてゆく必要があるのではないか、と改めて思います。

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